聖書のみことば
2023年10月
  10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月1日主日礼拝音声

 恐れと畏れ
2023年10月第1主日礼拝 10月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章18〜21節

<18節>民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、<19節>モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」<20節>モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」<21節>民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。

 ただ今、出エジプト記20章18節から21節までを、ご一緒にお聞きしました。
 今年の夏は旧約聖書の十戒の言葉を一つひとつ聞いてきましたが、今日の箇所に語られているのは、十戒の言葉が与えられた時、イスラエルの人々がどんな様子でこの言葉に向き合ったかという姿です。18節19節に「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます』」とあります。
 神から十戒の2枚の板を頂くため、モーセをはじめとするイスラエルの全員が山の麓に集まった時に、神もまた、御自身の民にお会いになるため、シナイ山の上に降られました。今日の箇所はその時の状況です。この場面は、この前の章の19章19節から続いているような箇所です。19章16節から19節には「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」とあります。ここは、今日の箇所と非常に似通っていることがお分かりになると思います。「神がシナイ山の上に降られた。すると山は全山煙に包まれた。また雷鳴と稲妻、角笛の音が鋭く鳴り響いた」というのも19章と20章で同じです。19章の記事と20章18節以下の記事は同じ出来事を語っているようです。
 ただ少し違っているとすれば、19章はモーセがこの出来事をどのように経験したかという方向から語られているのに対して、20章ではモーセと共にいたイスラエルの民がどのようにこれを感じ取ったかというところに焦点が合わされている点です。
 たとえば19章19節では、「角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」と語られています。すぐに気付きますが、モーセは別に恐れてはいません。シナイ山の上に降って来られ、厚い雲あるいは深い煙の中におられる神に呼ばわり、語りかけています。すると神は雷鳴をもってお答えになるのです。19節に語られている言葉に基いて考えるなら、イスラエルの人々が耳にした雷鳴は、モーセが語ったことに対する神の返事だということになるでしょう。神は、モーセがお尋ねした様々の事柄について、いわば、割れ鐘のような大声でお答えになります。モーセにはその神の答えが分かり神と対話することができているので、さほど恐ろしいとも思わないのですが、イスラエルの人たちには、それがまるで自分たちを脅かす雷の音であったり、明るすぎる稲妻のように感じられて、深く恐れ怯えています。それが今日の箇所では、「民は見て恐れ、遠く離れて立ち」という言い方になるのだろうと思います。
 この場面では、神が自分に語りかけてくださっていることを知って恐れることなく神に向かって呼ばわり語りかけ、その答えを聞いているモーセと、そのように神とのやり取り、神との語らいがなされていることを分からずに、ただそれが激しい雷鳴や稲妻だと思ってひたすら怯えているイスラエルの民が一緒にいるのです。両者の姿は、対照的と言ってもよいかもしれません。一方は、神が憐れみと慈しみをもって自分たちをここまで導いて下さった方であることを知って、喜んでその御言に耳を傾け心を潜めてこれを聞き取ろうとしています。ところがもう一方の人たちは、神が語りかけて下さっている同じ場面に居合わせていても、それが神の慈しみに満ちた語りかけだとは気づかないで、ただただ恐れ怯えてしまっているのです。

 こういう不思議な神との出会い方を経験したのは、ただモーセ一人だけではありません。たとえば旧約の預言者イザヤも、初めてエルサレム神殿で神にお目にかかった時に、最初は神がイザヤに語りかけようとしていることが分からずにいました。そして自分はきっと滅ぼされてしまうに違いないと言って、怯えたことが知られています。旧約聖書のイザヤ書6章4節から7節に「この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。』するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」とあります。
 ここで恐れているのはイザヤで、セラフィムというのは天使の名前です。神が天使を遣わして、恐れ怯えていたイザヤに「あなたの罪は赦された」という言葉を聞かせてくださいます。イザヤはその言葉を聞いて信じ、それからは神の御言に注意深く耳を傾けて、聞いた御言を同胞であるイスラエルの人々に持ち運ぶ、預言者の働きをする者とされてゆきました。「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」という言葉を耳にするまでのイザヤは、神との出会いにおいてひたすら恐れ怯えていたのですが、罪を赦されたことを信じてからのイザヤは、今日の箇所のモーセのように、御言を聞き分けてそれを人々に持ち運ぶ働き人とされたのでした。

 もう一つ、今度は新約聖書の例を挙げますが、キリスト教会の恐るべき迫害者であったサウロが、復活の主イエスの呼びかけを聞いて使徒に変えられてゆく場面、使徒言行録22章6節から10節には「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょう』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました」とあります。迫害者であったサウロが、キリストの使徒パウロに変えられてゆく場面です。
 ここでサウロは復活した主イエスの言葉を聴き取っていて、自分はどうしたら良いだろうかと祈っています。ところがまったくこの同じ場面に出会っていながら、他の人たちには、サウロに語りかけておられる主イエスの声が聞こえなかったと言われています。神の御言には、そんな不思議なところがあるのです。

 今日の箇所に戻りますが、この先の出エジプト記33章19節には、神がモーセに「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と言われるところが出てきます。まさしく神は、御自身が語りかけて罪の赦しを知らせ、神に赦された者として生きる幸いな人々を選び出して御言を語りかけて下さいます。先週まで聞いてきた十戒の言葉は、まさにそういう神の語りかけでした。
 十戒の最初は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という語りかけでした。まことの神が「どこまでもあなたと一緒に歩んであげよう。だからあなたは、ほかに神があってはならないのだ」と呼びかけて下さっていました。そして、その呼びかけを聞き分けて、「本当に神がわたしの神となってくださる」と喜ぶことができる人は幸いなのです。「神さまがわたしと一緒に、いつも、どんな場合にも歩んでくださる」というのは、新約聖書では「インマヌエル」と呼ばれますけれども、神がいつも顧みて下さり、人生に伴って下さることを聞かされる人は、丁度、今日の箇所のモーセがそうであるように、喜びと感謝をもって御言に耳を傾け、神の導きと救いがいつも自分の上に臨んでいることを知って、慰めと勇気を与えられて生きるようにされるのです。

 神を信じた人にも困難は臨みます。キリスト教以外の宗教ではご利益があると教え、信じれば良いことがある、悪いことは起こらないと言います。けれどもキリスト教では、キリスト者であっても他の人と同じように大変なこと、辛いこと、苦しいことに出遭う場合があることを教えます。しかし、「そういう私たちが神に覚えられている。そしていつも支えられていることを、御言を通して絶えず聞かされていく」、それがキリスト教信仰が他の宗教と違っているところだろうと思います。
 御言に聞いて生きる生活を許される人は、今日のモーセがそうであるように、たとえ人生の中で困難に直面し、苦労するような時にも、不安や恐れから救い出され、なお歩むことができるようにされてゆきます。私たちはそれぞれに問題を抱え、行き詰まりを感じることもありますけれど、そういう私たちに神が絶えず御言を語りかけてくださるのです。

 今日の箇所でモーセは、神の語りかけを聞き分ける者として、一つの使命を与えられます。モーセは、神の語りかけを聞き取ることができず恐れを感じてしまう兄弟姉妹たちに向かって、神の言葉を取り次いで、「恐れなくてよい」ということを伝える者とされています。20節に「モーセは民に答えた。『恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである』」とあります。神が語りかけてくださることを知り、聞き分けられるようになるときに、私たちに与えられている人生の困難は、神が自分に備えてくださっている試練であることが分かるようにされてゆくのです。
 思い返せば、神はイスラエルの人々をエジプトの奴隷暮らしから救い出して下さった方です。イスラエルの人たちはエジプトからの解放だと思って、ただ歩いただけでしたが、葦の海のほとりでエジプトの軍勢に追いつかれ皆殺しにされそうに思えた危難に際しても、神は、海の中に一筋の道を拓いてそこを渡らせ、そして、イスラエルの人々が生きるようにしてくださいました。直前の箇所には、雲の柱、火の柱となってイスラエルの先頭に立っておられた神は、エジプト軍に追いつかれそうになったときには、一番後ろへ移動して、イスラエルとエジプト軍の間に立って下さり、神自らが身を挺してイスラエルを支える盾となって下さったということも語られています。
 「神さまが私たちの人生に共に居てくださる」という御言を聞き分ける時に、私たちは、傍目からは絶対絶命と思われるような困難に直面する時にも、尚、行き詰まらずに、そこを歩んで行けるようにされます。大変不思議ですが、困難に出遭わなくされるということではなくて、困難の中を神が共に歩んでくださり、歩むことができるという経験をするようになるのです。

 神に対する畏れを持ち、神に信頼する人は、この世の出来事や自分に危害を加えるように感じる他の人たちを恐れなくても済むようにされるのです。モーセは、そのことを思って、同胞に、「恐れることはない。あなたがたに今備えられているのは、神さまの試みであって、あなたはここを通り抜けていくのだ」と語りかけました。

 そしてこの箇所を通して、神は私たちにも語りかけて下さっています。「あなたは恐れなくてよい。わたしに信頼して、すべてを任せて、わたしと共に歩む者となりなさい。あなたはわたしを自分の神として、ここから歩んでよい」と、神から御言を語りかけられる幸いな人は、神の保護の下に、神への信頼を与えられて、ここから新たに歩み出す者たちとされることを憶えたいのです。お祈りを捧げましょう。

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